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| ■「善」は、天地・自然の理法として、何事によらず絶えず己を省(カエリ)みることを本音とする。反省的であるのはよいのだけれど、凡人の常として、どうしても引っ込み思案になり、傍観的になりがちである。 ■これに対して「悪」は、何事によらず攻撃的で、人を責める。そうして相手が手強いほど、攻撃力が強くなる。したがって悪の人に与える刺激は、善のそれよりはるかに強い。 ■「悪」は必要の前にはよく団結する。だから一人でも「あいつは悪党だ」という。善人という語はあるけれど、善党という語はない。 ■善人は団結力がない上に、反省的で、引っ込み思案であるから、自分のほうが悪いのだと考える。これでははじめから勝負にならない。 ■「明哲保身」:善人でも本当によく出来た人は、むざむざ悪党の手に引っかかることが無くて、身を全うする。 |
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人間の悪に対する五つの態度 |
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1.弱肉強食 ・泣き寝入り型 2.復讐型 ・殴られたら殴り返す、蹴られたら蹴り返す。 ・弱肉強食型の意気地のない態度に比べると、まだ元気がある 3.偽善型 ・蹴られても蹴り返すことの出来ぬ人間が、己が良心の呵責やら、、負け惜しみ、さらには人前を恥じてこれを次ぐ名湾と繕(ツクロ)わんとするコンプレックスから、立派な理由をつけてその意気地なさをごまかそうとする。 ・自分自身をごまかしているのだから、人を誤り、世を乱す。 4.宗教型 ・俗世間の一切を超越して、すべてを平等に慈愛の眼で視るという態度。人間として最も尊い在り方であるが、人間の中の極めて少ない勝れた人たちにして初めて到達し得る境地であり、我々凡人には出来ない。 5.神武型 ・人間の道を重んずるが故に、悪を憎んで断乎としてこれを封ずるという態度。 ・人間を憎むのではなく、その人間の行う悪をにくむ。 ・武士道の武は、その人間を憐んで、悪から解放してやるのである。だから武という字は戈(ホコ)を止(トド)む、と書く。そしてその人間が悪を報いて悔いて改心するときは、心からすべて容(ユル)してやる。これを尚武あるいは神武と言う。 ・「武」というものが古来我々の悪に対する信念であって、その武がだんだん磨かれて「武士道」というものになった。 |
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「いま 魂の教育 著者」:石原慎太郎 発行:株光文社 より |
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