幕末の三舟1−2
海舟・泥舟・鉄舟のこと。

高橋泥舟(たかはし でいしゅう )
天保六年二月十七日、山岡正業の次男として江戸に生まれる。
幼名は謙三郎 のちに精一郎。諱は政晃。 泥舟は号。高橋包承の養子となる。 生家、山岡家は名槍家で、実兄の山岡静山(信吉)に就いて槍を修業し、神業 に達したとの評を得られるほどであった。泥舟が高橋家の養子にでて、生家 の方には山岡鉄太郎(鉄舟)が養子に入っている。安政三年、二十二才で講武所槍術教授、万延元年、同槍術師範となり、文久三年、上洛中の将軍家茂から浪士取扱を親諭され、勅許を奉じて従五位下に叙せられ、伊勢守を称する。同年江戸に戻ると疑われ、一時は小普請人差控となるが、また、講武所槍術師範に復帰し、その後、慶応二年新設の遊撃隊の頭取となる。鳥羽伏見の敗戦後、帰東、謹慎する慶喜を警護にあたるが、一方、義弟山岡鉄舟の駿府派遣を提案するなど、局面の打開に心を砕いた。廃藩置県後は、徳川家が静岡に移住するのに従い、地方奉行などに任じ、東京に隠棲して書を楽しみ余世を送った。 明治三十六年年二月十三日没。享年六十九才。 墓は、東京都台東区谷中六丁目、大雄寺。

山岡鉄舟( 山岡鉄太郎 )
(やまおかてっしゅう : やまおかてったろう)

無刀流
1836-1888
赤坂離宮に道場春風館をたてた。谷中の全生庵墓地に埋葬。幕臣 : 天保七年六月十日、江戸生まれ。旗本小野朝右衛門の五男。通称鉄太郎。 幼い頃より真影流、樫原竜槍術、のちに北辰一刀流を学び、才能を示した。二十歳の時に、忍心流の槍をよくする旗本山岡静山に学び、その弟高橋泥舟と親交する。静山死後、その妹英子の婿になり、山岡家を継ぐ。 この頃より、千葉周作の道場に通いはじめ、同門の清河八郎の攘夷論に共鳴した。山岡はかなりの攘夷論派であったため、、幕府の要注意人物であった。文久三年の浪士隊結成は、山岡も計画に加わっており、京都には取締役として行き、清河の帰東にも同行した。清河が赤羽橋で暗殺されると、現場に急行し、その首を隠したと語られている。慶応四年二月、徳川慶喜の恭順の意を伝えるため勝からの特命を受け、薩摩の益満休之助と共に征討大総督府参謀西郷隆盛を駿府に訪ねた。西郷に勝の手紙を渡し、慶喜の意を伝え、江戸城開城による和平交渉の大筋を固める。後の、西郷、勝海舟会談は、この交渉によるところが大きい。 維新後、新政府に出仕し、後に、明治天皇の侍従として仕える。 明治二十一年七月十九日没。53歳。

勝 海舟(勝 麟太郎)
( かつ かいしゅう : かつ りんたろう )
直心影流 :安政6年(1823)−明治32年(1899)
通称・麟太郎。 幕臣。 幕府により海軍伝習のため長崎に派遣され、咸臨丸を指揮して渡米。帰国後、海軍操練所を設立、軍艦奉行となる。 江戸城開城では西郷隆盛と会談し、無血開城を実現させた。