道場の地名由来

郷土史家 小野寺 峻(修空館道場初代会長)

古代、桃生城時代(1230年前)から現代まで
“桃生郡”は早くからひらけ、鎌倉時代初期
(800年前)には“永井城”が置かれ、
天正19年(1591年)から幕末まで、
村田公が永井領主として治めてきたこの
地は、明治22年まで、永井村と
称されてきたところである。

 宮城県史、角川の日本地名大辞典等によれば、
この永井村は、小山・沼尻・糠塚・
道場・蟹沢
・岩の沢・トロノ木沢・仁田森など45の小字
から成ると記されている通り、明治22年、
桃生村となってから、永井は糠塚・裏永井
・西前など5つの小字なまとめ大字とな
ったものだが、今でも里人は糠塚の誰さん、
道場の誰さんという様に長い間親しまれ
てきた旧小字名で呼称されている。

 この永井村、道場は江戸時代の頃からの地名
であることは確かなことだが、詳しくは不明で
あるものの、判然としていることは、
仙台伊達氏
の御一家、村田家に御目付役として仕えた、
小野寺忠太夫敷久(文政5年〜明治21年)が、
この地の邸内に学問道場を構え、里人の子弟に
読み書き・算盤(そろばん)、剣術等の教授
をして居たところが、
明治5年、新政府が
「学制」を発布したことから、翌明治6年、
永井浄音寺を仮校舎として「永井小学校」
が開設されることになり、これまで各自、
寺子屋的な私塾で教学していた村田恂之輔
・足立広太・小野寺忠太夫の各氏は、
この浄音寺の仮校舎で児童の教育
に当ることになった。

 時代は下って、大正から昭和初期にかけて、
この
忠太夫の孫忠弥は、関流数学九伝、
千葉貞三郎流谷から関流数学の奥儀を
伝授され十伝を継承し、小野寺流永と号し、
数学・天文・易学等を里の青少年達に教授し

道場の地名が連綿として生き続けて
きたのである。

 今、前記忠太夫から四代、忠弥には孫に当る
館長が昭和49年、この
由緒ある道場の地に、
修空館道場を創設、父祖の教育理念をよみがえ
らせ
「心の時代」といわれるにふさわしい
「精神」と「肉体」の鍛錬に打ち込み全国
に盛名を馳せるまでに至ったことは、有名、
無名の沢山の人々からの惜しみない御援助
の賜ものであり、祖先の遺風赫々(かくかく)
たるところであることを思うとき、館長
以下一丸となって次代を担う多くの
人材を世に輩出してゆかれんことを
ひたすら願うものである。